fc2ブログ

かぐや姫伝説

かぐや姫伝説

奈良県北葛城郡広陵町三吉に讃岐神社がある。ここは竹取伝説発祥の地である。三吉を(さんき)というが昔は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷といい、三吉に替わったものとおもわれる。さらに讃岐神社の讃岐はかつて忌部氏が讃岐から移り住んできてこの近辺に住み着いたため、この名前がある。この近辺は真美が丘丘陵の北寄りにあり、馬見古墳群の一角にあたり、巣山古墳や新木山御陵参考地の大型古墳や大小さまざまの古墳が連なっている。近年竹取公園となり整備されて近隣の住民の憩いの場となっているが、かっては細い地道が一本あるだけで、巣山古墳が鬱蒼とした雑木林や竹やぶの中に神々しい姿をあらわしていた。むしろこの方が古墳の趣きに富んでいたと思はれる。讃岐神社の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄16年6月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。

 竹取物語の内容を追ってみよう。
(1)今は昔、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた竹取の翁(おきな)とその妻の嫗(おうな)がいた。翁の名は讃岐造といった。ある日、翁が竹林に出掛けていくと、光り輝いている竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸ほどの可愛らしい女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てる事にした。その後、竹の中に金を見付ける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで年頃の娘になった。この世のものとは思えない程美しくなった娘に、人を呼んで名前を付ける事になった。呼ばれてきた人は「なよ竹のかぐや姫」と名付けた。この時、男女を問わず人を集めて、三日に渡り祝宴をした。

(2)世間の男達は、高貴な人も下層の人も皆何とかしてかぐや姫と結婚したいと思った。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは竹取の翁の家の周りで過ごしていたが、その内に熱意の無い者は来なくなっていった。最後に残ったのは好色といわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。五人の公達は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。
 彼らが諦めそうにないのを見て、翁がかぐや姫に「翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、お前も彼らの中から選ばないか」というと、かぐや姫は「なぜ結婚などしなければならないの」と嫌がるが、「『私の言う物を持って来る事が出来た人と結婚したいと思います』と彼らに伝えてください」と言った。夜になると例の五人が集まってきて、翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。
 その意思とは石作皇子には仏の御石の鉢、車持皇子には蓬莱の玉の枝、右大臣阿倍御主人には火鼠の裘(かわごろも)、大納言大伴御行には龍の首の珠、中納言石上麻呂には燕の産んだ子安貝を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。
 石作皇子は只の鉢を持っていってばれ、車持皇子は偽物をわざわざ作ったが職人がやってきてばれ、阿倍はそれは燃えない物とされていたのに燃えて別物、大伴は嵐に遭って諦め、石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って取ろうとして腰を打ち、断命。結局誰一人として成功しなかった。

(3)そんな様が帝(みかど)に伝わり、姫に会いたがった。喜ぶ翁の取りなしにも関わらず彼女はあくまで拒否を貫くが、不意をついて訪ねてきた帝に姿を見られてしまう。しかし、一瞬のうちに姿を消して地上の人間でない所を見せ、結局帝も諦めさせた。しかし、帝と和歌の交換はするようになった。
 帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。八月の満月が近付くにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であり、十五日に帰らねばならぬ」という。それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送る事となった。
 そして当日、子の刻頃、空から天人が降りて来たが、軍勢も翁も嫗も戦意を喪失し抵抗出来ないまま、かぐや姫は月へ帰っていく。別れの時、かぐや姫は帝に不死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈った。しかし帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は「不死の山」(後の富士山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになった。

 この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにも関わらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている。


90466.jpg


幼子を見つける竹取の翁(土佐広通、土佐広澄・画)


竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」という物語があり、その内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似しているため、伊藤清司は『かぐや姫の誕生―古代説話の起源』(講談社、1973年)で、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったと推測した。

 かぐや姫・老夫婦・帝などは架空の人物だが、実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の公達のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。また、車持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋だっただろうと推定されている。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台に設定されたとされている。
主人公のかぐや姫も、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ、大筒木垂根王の女)との関係や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることからから豊受大神との関係について論じられるなど、様々な説がある。

 物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後の1人である藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書く事によって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。

歴史によれば藤原氏は8世紀、権力の掌握を目的に多くの政敵に血の粛清を加えて「藤原氏だけが栄える世」を構築し、藤原氏批判の書を焼き捨てる等の政策を繰り返したが、その中で表立っての藤原氏批判などが出来ようはずもなく、同時代に成立したと思われる『竹取物語』と言う物語の中に様々な工夫を凝らして藤原氏に対する批判が込められていたとしても不思議なことではない。
最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。
作中にかぐや姫からもたらされた不老不死の薬のくだりがあるが、帝が「かぐや姫がいないこの世で永遠の命が必要であるか」と薬を富士山の火口で焼く一幕について、皇室も藤原氏に利用される存在でしかないという帝の嘆きとは取らず、天人がかぐや姫を迎えに来る際、「穢き(きたなき)所」と地上を評する一文があることから、藤原氏により支配されてしまった世を嘆いている紀貫之の言葉と見る向きもある。




目次に戻る

HPに戻る

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
プロフィール

恵さんと仲間

Author:恵さんと仲間
FC2ブログへようこそ!

最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
最新記事
最新コメント
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR