{高田 惠}
「斜路庵先生」遼太郎 拾い読み その1
戦前、私の読書盛りの頃は欲しい本が自由に手に入らない時代であった。その反動もあり、後年本が容易に手に入る時代になると、何となく「作者の名前だけ見て」買う習慣が付いていた。振り返ると主な作者は2人である。一人はアメリカ人で西部劇作家の「ルイ・ラムール」であり、今一人は我が司馬遼太郎である。前者は開拓時代の大西部を主題にした作品群であるが、アメリカ滞在の5年間、日本との往復の機中の読み物として都度4~5冊は求めるのを習いとして来たので今も50冊ほどが書庫に眠っている。これはアメリカの歴史を知り、英語の勉強にもなる好個のテキストだと欲張ったのであるが、その内暇が出来れば翻訳をしたいとさえ考えたりした。
司馬遼太郎をまとめて読み始めたのはこれよりかなり遅く、多分平成に入ってからだったと思う。初期の物から早すぎた晩年の作品まで、文庫本ばかりではあるが大方は揃えていている。
彼は私と略同年代であり、(3歳上)大阪の出身でもある。学歴から判断してもひけを取らず、この程度の作家なら私にも理解出来るだろうと言う思い上がりもあり、格別の親近感を持つって接するようになった。
後年「国民的作家」と言う大変な名前が付いたが、私には外語出の新聞記者上がりと言う認識が抜けず、長らく過少評価を続けて来たようである。
2)若き日の遼太郎
彼は会社のすぐ近くの浪速区の塩草町と言う所で薬局を営む福田家の次男として生まれた。本名は福田定一と言うが、兄は早世し、幼時の彼は病弱の為、奈良県當麻町にある母親の実家に預けられた。
昭和11年、私立「上之宮中学」に入学した。府立中学の連中はこの学校を「タコ中」と蔑称していた。
5年生の時、「大阪高等学校」に挑戦して失敗、翌年はレベルを落として「弘前高校」を受けたがこれも駄目、2浪の末「大阪外語」(専門学校)の蒙古語学科に入学している。
大高受験で失敗した話は彼の著書の何処かで、合格発表の日に播磨町(大高の所在地)辺りを歩きながら、友人に「お前、これからどうする?」と聞かれ、「仕様が無いから馬賊にでもなるか」と答えた所があるので、どうも確かなことらしい。
昭和18年には学徒出陣があり、繰上げ卒業で兵庫県の青野が原の戦車連隊に入隊。翌年4月満州の四平洗車学校に入校し、12月には此処を卒業して、牡丹江の久留米戦車第一連隊の小隊長として配属された。
翌年本土決戦に備え栃木に移転し終戦を迎えている。昭和21年、新聞記者として就職したが会社が倒産、23年に産経新聞に職を得て京都支局に配属され、宗教や大学を担当。昭和36年に退職し、本格的な執筆活動に入った。
3)遼太郎の作品群
彼はその一生を通じて数え切れないほどの名作を残しており、その歴史観は私などの思いも及ばぬものであり、独特の文体は真似が出来ないものである。
何時の間に、何処で、これだけの力を身に付けたのか?考えてみると彼は卒業後ものを書く事を本業として十数年を過ごした上に、宗教と言う得体の知れぬ部門を担当したことであろうか?これに比べて小生は会社の雑務に埋もれ、思索の暇も無く、体系的な勉強もせずの10年を過ごしたので、此の差は当然のことかも知れない。今思えば一寸残念な事ではあるが、それが天稟の差なら如何ともし難い。
彼の初期の作品では創出された無名の人物を活躍させる「時代小説」が主体であった。
「梟の城・大阪侍・風の武士・果心居士の幻術」など、どれを見ても興味本位の読み物の域を出ないものばかりであった。
所が実在の人物に焦点を当てた「歴史小説」を書き始めるに及んで、一転してその筆は冴えて、高い評価を受けることとなった。「竜馬が行く・燃えよ剣・菜の花の沖・翔ぶが如く・坂の上の雲」などは、歴史小説と呼ぶよりはむしろ「英雄譚」と名付けるのが相応しいと思う。
「坂の上の雲」のように主人公は一人とは限らない。歴史上それほど有名でなかった人物が、彼の作品により脚光を浴びることになったものも数多くある。
小説の傍ら「街道を行く」と名付けた「歴史紀行文」を始めたが、この方は歴史情報を地理的に配置した読み物で、都合43巻もある。旅行案内としては手ごろであるが、私には蓄積した知識を商品化したとものしか映らない。
髄筆・随想の類も結構多いが、中々奥深い考察が散見される。私の浅い見識では一概に評価するのは難しいが、矢張り高度な思索家であったと言えようか?
以上取り敢えず司馬作品を大観した上で、ボツボツと各論を書いてみたい。
平成22年10月
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