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飛鳥藤原京第183次調査

 12月7日久しぶりに奈良文化研の藤原京現地説明会に参加した。藤原京は自分にとって地元であるし、何回となくぶらぶら歩くところである。春は若葉が、秋には最近有名になった”こすもす”の花畑が田舎の田園風景をにぎわす。一見何の変哲もない、どこにでもあるような田園風景であるが、1300年前ここが日本の中心、藤原京の存在した場所である。
この都の建設過程について「日本書記」にくわしい。年代順にこの間の歴史を列挙すると
672 大海人皇子 壬申の乱に勝利
673 天武天皇即位
676 天武天皇 藤原京建設を決定
683 具体的に建設計画が動き出す
684 新都建設予定地が現在の奈良県橿原市(かしはらし)に決まる。
686 天武天皇病死(第一ハプニング)
686 大津皇子が謀反(第二ハプニング)
689 草壁皇子が病死(第三ハプニング)
690 草壁皇子の母親である讃良皇女が「持統天皇(じとうてんのう)」として自ら即位
691 本格的に新都建設に着手
694 新都移転 都を「飛鳥浄御原宮」から「藤原京」に移す。 
710 「平城京」に都を移される。

この間藤原京の遷都はただならない歴史上のハプニングの連続で、遷都までには数々の困難が待ち受けていた。676年天武天皇が遷都を発願して694年に実現まで18年を要し、710年平城京に遷るまで16年間の首都であり、首都建設としては未だ完成途上であった。この時代は「白鳳文化」と呼ばれ、日本古代歴史の一時代をなした。
発掘当初藤原京は大和三山の内側と目されていたが、発掘が進むにつれてその範囲が拡大され現在東西10坊、南北10条の広大な都城の遺構が残されている。ちなみに自分の住居は北5条、西5坊のはずれであり、ここに都城の大通りの角が歴史遺物として発見された。(図1)
藤原京全体図
図1 藤原京全体図

 図1の北2条大路は横大路といわれ東は桜井から伊勢に通じ、西は二上山から羽曳野、堺まで、日本最初の国道一号線といわれた。
 今回の発掘は東方官衙北地区といわれ、図1の北一条大路と東二坊大路(中つ道)の交差点にあたる場所で、調査説明資料によると「第183次調査では藤原宮の官衙地区で初の事例となる礎石建物や掘立柱建物を検出し、藤原京の建物配置に重要な新知見を追加しました。また7世紀後葉から藤原宮造営期の遺構も多数確認し、この時期の複雑な遺構変遷を理解するための新たな手掛かりを得ました。古墳時代を含む、7世紀以前の遺構も検出しており、藤原京の成立にいたる長い歴史の解明に寄与する数多くの成果をあげることができました。」とある。
藤原京発掘現場
図2  藤原京発掘現場

 従来の発掘は図2の如く、図1の藤原宮中心部および南部の大嘗祭等を行った中枢設備を中心におこなわれた。今回は説明資料の如く、中心からはずれた、いわば官庁街である。そしてその立地地点が藤原宮と北面を同じにした場所で、礎石建物といえば、宮殿などと同じ、柱穴に石を突き詰めさらに大きな礎石で基礎を固めた建物である。これは大極殿と同じく藤原京の設置とともに建立された、中心建物であろう。おそらく楼閣風建物、または、高床式倉庫と予想される。とすれば東西および南北に対照に同じ建物が建立されている可能性を予測させる。
 平城京には有名な朱雀門がある。藤原京に朱雀門があったかどうかわからない。しかし、中国をまねて作った都城であるから少なくとも計画はされていたであろう。
藤原京は完成を待たず平城京に遷った。したがって予想通りには建築物は存在するかどうか、わからない。なぜ平城京に遷都したか、歴史学者は諸処説明はするが、実際のところ、判っていない。この不確かさが、藤原京の面白さであるが、発掘の完了までは数百年を要するであろう。 朱雀門に限らず玄武門は青竜門は白虎門はあったのか、なかったのか?

藤原京コスモス畑
藤原京のコスモス畑

藤原京遠景
藤原京の遠景


2014年という年

 2015年になった。2014年も色々あった年だった。

なによりも昨年は病院に4回、約3か月入院していたことになる。
最初は4月1日、机の上に乗り、降りるとき不覚にも椅子から転落し、右手首を骨折した。数年前にも同じようなことで、本箱整理中に椅子から落下し、左手首を骨折したのであるが、この時は軽い骨折で、近くの病院に入院することなく、ギブスだけで通院治療ですんだ。今回は骨が手首の外部に突出し、医者に言わせると、前回は3点程度とすると、今回は10点程度で、ちゃんとした病院に入院して下さいとのこと。通いつけの天理よろず病院にお世話になった。この入院がまた大変で、自分は透析患者で週6日の腹膜透析と週1日の血液透析をおこなっている。これが肝心の右手が完全に使えないので、看護婦に治療と透析の2倍の世話をかけることになった。幸い透析治療は以前同じ病院で処置してもらっているので、「あら、今度は骨折?透析のほうはまかしといて。」といわれ、一応一安心であったが、整形外科の看護婦はこちらがメインで透析患者など扱ったことがないため、腹膜透析に興味があったらしく、暇な看護婦が全員透析見学におとずれるしまつであった。

 やがて4週間が過ぎた。一応は退院であるが手首はまだ包帯のままである。針金を骨折場所に3本ほど埋め込んでいる。家に帰っても食事もパソコンも左手一刀流で過ごした。そして一か月後針金を抜くために二度目の入院をした。看護婦も「あら!お帰りなさい」である。
ほどなく、包帯もとって、一応右手も使えるようになったが、なかなか後遺症がとれない。

 3回目は9月21日で、腹膜炎をおこしてしまった。これもまた大変で、腹膜透析をやっていると、最も警戒しなければならない病気であった。なにしろ腹膜に管を通して、一日4回この管から透析液を出し入れするので、この管を伝ってばい菌が入りやすい。一応8年間無事経過したので医者からもそろそろ全面的に、血液透析に切り替えなければならないといわれていた。自ら決断することなく、今回を限りに血液透析に切り替えた。そして週3回透析に通うことになった。

 そして4回目の入院が11月18日からやってきた。一般的に腎臓病は腎臓細胞が破壊されて、本来の機能である尿が出なくなる病気で、健康人は通常一日約1000グラムの水分を尿というかたちで排出する。腹膜透析では、一日4回の液排出の時、この水分が液とともに1日同量の廃液を排出していたのでバランスがとれていたのであるが、週三回透析をおこなうようになって、対外に廃液を排出できなるので、血液にたまったまま体内を循環し、心臓に負担がかかる。この負担にたえかねて、心臓が不整脈をおこすのである。この不整脈が透析の度におこり、急遽体重をできるだけ減らすことになった。そして結果8キロ減らすことに成功した。この不整脈対処のために10日ほどまたまた入院になった。

 以上が入院の経過であるが、入院の合間には、結構楽しいこともあった。一回は5月に次女の嫁ぎ先にゆくことになっていたが、骨折で8月に延期していて、車で東京に行った。娘はマンションに住んでいるのであるが、そのマンションに家族用のゲストルームが安く借りられるので、そこに一泊した。次の日かねて気にしていた、両親の墓参りがやっと実現した。そしてその夜娘の旦那の両親と昨年の結婚式以来の会食を横浜の中華街でもようしてもらった。その夜はベイエーリアのコンチネンタル ホテルで横浜の夜景を堪能した。
CIMG5551.jpg
同窓会でのスナップ

 もう一つ、今年のメーンイベントである、クボタ電算60周年記念同窓会を実行した。これは11月9日で幸いにもうまい具合に、入院を避けることができた。結構事務手続きが多く、手配も煩雑であったが、乗り切った。ただ上にしるした不整脈の最中ということになり、前日には出席できるかどうか、夫婦でやきもきしたことであった。同窓会には79人の人が出席していただき楽しい時間であった。今まで2回、50周年、55周年も行ったが、前2回に出席されなかった旧友も参加し、大変懐かしいことであった。


ロシアからの使節






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ロシアからの使節 1854年

プチャーチン提督.jpg
写真1 プチャーチン提督
現在、ロシアとの北方領土の交渉が、事務ベースで進行中であると理解している。
その内容は、最後まで非公開のようである。
二十年前の、ロシアと中国の河川国境での領土交渉でも徹底した非公開であった。
 2月7日は<北方領土の日>である。また、今年の2月7日は、ロシアでの
ソチ冬季オリンピック>の開会日になっている。安倍総理大臣は、その開会式に出席しないと決めた。
そこには領土交渉の模様が感じられる。

1.大阪万博 1970年
 昭和45年(1970年)、大阪の千里で万博が開催された。
 クボタ館には、アメリカJM社からの特別派遣で、三人のアメリカ人女性がオレンジ・イエローの制服を着て、
日本人ホステス50人と一緒に働いた。
 その1人を、マリア・プチャーチンと言った。トテも控えめな性格で、いつも笑顔をたたえていた。
 万博会場の新聞記者の訪問を受けて、彼女は何気ないように、今回自分が日本に来るに際して,
お婆さんから、「Your great,great,great,great grand fatherは昔、日本に行った海軍軍人だった」
と聞かされたと語った。その時、"great"を四回、確かめるように眼を天に向けていた様子が、
私に記憶として残っている。万博記事で、そのくだりは小さなものであったが、
戸田(へだ)の村長の注意するところとなった。山田三郎村長は飛ぶようにしてクボタ館に現れた。
 私は2012年11月、一人で戸田を訪ねる機会があった。
修善寺からバスで40分、峠を越える山道をゆられ、他の三人の旅人と一緒に戸田に降り立った。
 戸田には、プチャーチンの足跡が博物館に村の宝として保存されていた
ロシア海軍水兵の行進.jpg
写真2 長崎でのロシア水兵の行進

大阪湾にて役人に囲まれるロシアの海軍.jpg
写真3 大阪で役人に囲まれるロシア船

2 プチャーチン提督 (海軍中将:侍従武官長)
ロシアのロマノフ朝 皇帝ニコライ一世はトルコとの国境交渉に実績のある
プチャーチンを遣日全権使節に任命、日本との国境画定、通商と外交での開国を求めて、
武力によらない、平和的な交渉を命じた。
 プチャーチンは1852年9月に旗艦パルラダ号でペテルブルグを出発、
イギリスにて<ボストーク号>を購入してこれを従え、アフリカの喜望峰を回ってセイロン、フィリピン、父島に到着、ロシアからの他の二隻を加えて長崎に到着した。
時に1853年8月、この時すでにアメリカのペリーは二カ月前に下田に到着していた。
長崎奉行は大沢安宅、プチャーチンの携えてきた<国書>の受け取りすら幕府に伺うようにして対応した。
 幕府より派遣された外国奉行;川路聖謨(としあきら)、筒井正憲は6度にわたる交渉も妥結にいたらず、
1854年1月、プチャーチンは国書を日本側にわたしてマニラに船の補修と補給のために向かった。
ロシアはイギリスとクリミア戦争に入った。プチャーチンは情勢把握のため上海に行き、
一旦、極東ロシアの沿海州に帰り、老朽化しているベルラダ号を新造の<ディアナ号>に取り換えて、
すぐに函館に向かったが、此処では断られ、大阪の天保山に入ったがまた、
此処でも伊豆の下田へ行くよう言われ、1854年12月3日、ようやく下田に入港した

3. 安政東海地震 (1854年12月23日)
 下田での幕府との交渉が緒についたころ、安政東海地震が発生した。 下田には大津波が押し寄せた。 
全家屋数が875戸のうち847戸が流失した。溺死者は122名。ディアナ号は津波で幾度と横転大破、
甲板にある砲の下敷きで水平が圧死した。しかしディアナ号は海上より数名の日本人を救助、
更にプチャーチンは副官と船医を下田に見舞いに伺わせ、救援活動の医療援助を申し出た。
 加えて、プチャーチンは帰国のために、ディアナ号の修繕を願い出た。
当時、ロシアはイギリスとクリミア戦争で交戦状態にあった。
ロシアとしては、イギリスに発見されないことが必要であった。幕府は船の修繕場所として戸田(へだ)を指定した。
ところが、漁船でディアナ号を戸田に曳航する時、風雨が激しくなり、船は浸水して沈下し始めた。
近くの漁船二百余隻が救助に参加し、ディアナ号より貴重な荷と500余名のロシア水兵全員を無事に陸に揚げた。
この時の地元漁民の奮闘はロシア側を深く感動させた。
その時のロシア側の一人の祭司は、次のような記述を残している。
 「善良な,まことに善良な博愛の心に満ちた民衆よ!この善男・善女に永遠に幸あれ!
末永く生き、そして銘記されるべし。500人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人漁民のものであることを」
 江戸時代は外国との交わりを厳しく禁じていた。異人に近づくな、異国の船に水や食料を渡すことも御法度であった。そのような時代に、船が難破したロシア水兵500余名は、このような劇的な交わりで始まって、戸田での生活を初め、
ディアナ号に代わる代船の突貫建造を目の当たりに見、同時にプチャーチンは本題の日露交渉を進めたのである。
日露和親条約.jpg
写真4 日露和親条約

北方領土 .PNG
写真5 北方領土図

4. 日露和親条約 (1855年2月7日)
 プチャーチンは最初に長崎に到着してからすでにかなり時間が過ぎている。基本的には、交渉を急いだ。
しかし、日本側は、鎖国政策の中での、国内での強力な攘夷論への配慮と、アメリカを優先した幕府の方針のもと、
慎重な態度であった。プチャーチンは、オランダ人医師シーボルトの助言もあって、日本側の態度、日本の制度,
日本の希望や考え方に理解をする態度に徹した。
 日露和親条約は本文をオランダ語とし、日本語、ロシア語を残している。
全文9条、その第2条に領土の境界を次のように定めた。
 <今の後,日本国と露西亜国との境,エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。カラフトに至りては、
日本国と露西亜国の間において、界を分かたず,是までの仕来りの通りあるべし>

此れは近代において、日本とロシアが平和な時代に、平等な立場を保ちつつ結んだ条約である。

5.  ディアナ号に替わる<戸田号> 帰国
 新しい帰国用の船は、1855年4月26日に完成した。この新しい船の建造は幕府は無償で行った。
 プチャーチンは、日本側の協力への深い感謝と感動をこめてこの船を<戸田号>と命名した。
 帰国は次の三班に分かれた。
 第一班  1855年2月  159名  米国商船 フート号 傭船
 第二班  1855年5月  48名  <戸田号> プチャーチン一行
 第三班  1855年6月  270名  米国商船 グレタ号 傭船
船はウルップを経て極東沿海州へ向か胃、その後は陸路でペテルブルグへ向かった。
新造戸田号.jpg
写真6  新造船 戸田号

孫娘オルガ・プチャーチン.jpg
写真7 孫娘 オルガ・プチャーチン

6. 孫娘 オルガ・プチャーチンのお礼訪問
 1887年(明治9年)孫娘が来日し、戸田を訪れている。彼女はロマノフ宮廷に仕える女官であった。
戸田では、松城邸に宿泊し、戸田村に100ルーブルを寄付している。このお礼の訪問は、
プチャーチンの遺言によるものであった。
 今、戸田にはプチャーチンを記念する博物館がある。残された記念品や写真、文物を見ていると、
プチャーチンと、その人となりが分かり、当時の500余名のロシア人の生活とともに偲ばれる。
 プチャーチンは絵の上手な部下に命じて自画像を描かせ残している。
私の魂は、この地に永遠に残るべし」との言葉を残して。
プチャーチンの自画像.jpg
写真8 プチャーチンの自画像

戸田港からの富士山.jpg
写真9 戸田港からの富士山 


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